妊婦にも「24時間以内に立ち退け」と命令―サントス強制退去はなぜ語られてこなかったか?

日系団体や移民史など
日本移民らのサントス強制立退きを報じるトリブナ・デ・サントス紙1943年7月10日付

2019年12月19日にNHKドキュメンタリー、BS1スペシャル「語られなかった強制退去事件」が放送されました。
ご覧になりましたか? 
日系移民、 日本人とその子孫、約6500人が24時間以内に、それまで営々と築いてきた財産を捨てて強制退去させられたんですよ。
妊婦だろうが病人だろうが、日本国籍者はみな強制的に立退きとなりました。
とても悲しい事件ですね。
NHK番組にもある通り、この事件は、ブラジル日系社会ではタブーとして語られてきませんでした。
では、どうしてサントス強制退去事件は、タブーになってしまったのでしょうか?

サントス市のポンタ・ダプライア周辺

サントスの強制退去はなぜ起きたか?

戦争中の日系人や日系移民、日本人の「強制退去」とか「強制立退き」「強制収容」といえば、普通は第2次世界大戦中の北米の日系人を思い浮かべますよね。
ですが、ブラジルでも強制退去や強制収容が行われていたんですね。
ただし、規模が北米よりも小さかったので、今まで日本では注目されてきませんでした。
NHKの番組は、それに光を当ててくれました。

現在のサントス市の街角

1943年7月8日、 敵性移民とされた サントス市に住む日本移民と未成年の二世ら約6500人に加え 、ドイツ系移民215家族が24時間以内の強制退去に遭いました。

ニッケイ新聞で2019年12月に掲載された連載「サントス強制退去の証言=その日何が起こったか( 有馬亜季子記者 )にその時の様子が、詳しく記されています。ぜひ、読んでみてください。

サントス港は、ブラジル海軍の軍事拠点であり、サンパウロ州の玄関口ともえいる貿易港でした。その周辺にドイツのUボートが頻繁に出没して、ブラジル商船や米国商船を沈没させる被害が出ていたため、ブラジル版の特高警察である DOPS (政治社会警察)が強制退去を命じました。
同じ枢軸国側であったイタリア系移民は、あまりに人数が多かったために、そのままにされたといわれています。
難しい部分がありますが、欧州文化の中でも、イタリア系移民はラテン文化の系統でブラジル国民に馴染みやすかった部分があります。それに対して、ラテン系とは文化的に遠かったドイツ系、まったく異なる日系が差別の標的となった印象は否めないといわれています。

歴史書からは、極限まで記述が削られた最重要事件

それだけの移民史上の大事件なのですから、さぞや『ブラジル日本移民70年史』(1980年、70年史編纂委員会)でもサントス強制退去に関する説明がたくさんあるかと思いきや、たったの4行です。

さらに、現在にいたるまでブラジル日本移民史の定番ともいえる『ブラジル日本移民80年史』(1991年、同編纂委員会)には、以下の記述のみです。

また、年を越えて43年7月8日には 、ブラジル、アメリカの貨物船がサントス出港間もなく5隻もドイツ潜水艦に撃沈されたところから、海岸地方在住枢軸人の スパイ行為による連絡 の結果と見られ、同地方居住枢軸人に対し、24時間の期限をもっての立退き命令が発せられ、取るものもとりあえず強制的に退去させられた約1500余の日本人を主とす る枢軸人は、一旦サンパウロの移民収容所に収容された後、サンパウロ市内あるいは内陸奥地の知人をたよって落ちのびた。

『ブラジル日本移民80年史』(1991年、同編纂委員会) 140頁

印刷版は452ページもあるにも関わらず、サントス強制退去に関する記述は、わずか6行…
しかも、強制退去させられた人数が「約1500余」と、最小化されています。

ちなみに 『ブラジル日本移民80年史』PDF版がネット上で公開されていますので、誰でも見ることができますよ。PDF版の407ぺージにサントス強制退去の記述があります。

80年史を編纂した人たちは、単に「知らなかった」のでしょうか。
それとも、「知っているけど書けなかった」のでしょうか?

それは、多分「書けなかった」のです。もちろん、これは、少ししか書いていないことを非難するという意味ではありませんよ。
書きたくても書けなかった事情を深堀りする―ことが大事ではないかと思います。

邦字紙関係者「邦字紙の欠陥は政権批判ができないこと」

戦後最初に生れた邦字紙「サンパウロ新聞」(2018年末廃刊)の創立に関わり、ブラジル日系社会の中心団体であるブラジル日本文化協会(現在は「~文化福祉協会」)の事務局長、ブラジル日本都道府県人会の会長も務め、日系社会の裏面をよく知っていた藤井卓治さんは、こう書いています。

日本語新聞最大の欠陥は、ブラジルの政治批判が許されないことにある。三浦日伯は日本の出先官憲批判で、時報と対立となりブラジル政治批判のワナにひっかけられて2度も国外追放の憂き目をみた

『笠戸丸から60年』 在伯県人会連合会、1969年、51ページ

と書いています。

「三浦日伯」とは、戦前に3回もヴァルガス大統領から国外追放令を出された、三浦さくが社主をした 「日伯新聞」 のことです。日本政府の大陸侵略政策などを批判したことから、日本国外務省などが動いて、ヴァルガス大統領に命令を出させたと言われています。移民史上では「筆禍事件」と呼ばれています。

日伯新聞1930年1月1日号(日本移民史料館所蔵)

彼は、最初に2回はなんとか切り抜けましたが、3回目(1939年)は本当に国外追放され、新聞社を置いて失意のまま帰国しました。戦時中には東京で特高警察の取り調べを受けて弱り、友人である日本力行会の永田稠会長宅にしばらくお世話になりますが、終戦後すぐに亡くなりました。

邦字紙社主の国外追放、強制廃刊が残したトラウマ

この三浦鑿の国外追放はもちろん、ヴァルガス新国家体制による外国語メディア規制強化により、日本語新聞は 1940年7~8月に強制廃刊させられました。この苦い経験は、当時の邦字紙関係者には忘れられるものではありませんでした。

日本で「表現の自由」の問題と言った場合は、書かれた内容が主に対象になりますが、連合国側における日本人の移民社会においては「日本語」という表現自体も問題にされました。邦字紙は二つの国の強力なナショナリズムの狭間を、漂いつづける宿命があったんですね。

同じ邦字紙関係者が1946年10月にサンパウロ新聞、3カ月後の1947年1月にパウリスタ新聞という具合に新しい邦字紙を創刊していきます。ですから、戦前に強制廃刊させられたトラウマがを引きずったまま、戦後もブラジル政府批判が御法度であり続けました。

たとえば、パウリスタ新聞編集長や『70年史』編纂委員長を務めた斉藤広志は1968年時点で、こう書いています。

この国の政局や政策を論じることは、いちめんデリケートな問題があるから、邦字紙の立場は『傍観者』という域から脱することはむずかしい。筆禍事件の前例もあることである

ラジオ・サントアマーロ年報『放送』31ページ

民主政権時代も続いたDOPSという存在

ヴァルガス独裁政権はいったん、1945年12月に崩壊し、翌年から選挙による民主主義体制に戻ります。そして、19年後の1964年に軍事クーデターで軍事独裁政権になってしまいます。
この間、一つ問題なのは、この民主主義体制の19年間もDOPSという特高警察のような組織は存続しつづけたことです。

DOPSが入っていた建物。現在はレジスタンス博物館になっている

そのために、政府批判的な言動をすることは、非常に難しい状態が続きました。
この建物の中の留置場に、理由も知ら去られずに収監され、拷問まで受けた人がいました。
特に軍事政権中には、多くの政治活動家が「行方不明」になりました。恐ろしい建物です。

日系社会に対する弾圧の一例が、終戦直後の 1947年9月にサンパウロ市で自主刊行された日本語著書『南米の戦野に孤立して』の発禁処分です。

サントス強制退去もふくめて、戦争中の日本移民迫害の経験を書いた本でした。その内容への共感が広がり、同胞社会のベストセラーになったのです。

『南米の戦野に孤立して』 の表紙

同書の第3節「海岸地帯の同胞四千人の立退命令」ではサントスの強制立ち退きの悲劇が、次様な感じで、実に8ページも抒情的に描かれています。

家も商品も家財道具も何も彼も一切を放棄し、羊の大群が追われてでも行くようにほんの着のみ着のままで、小さな手廻り品だけを持つ女達、子供の泣き叫ぶ声、老人のうめき声、兵隊の叱咤の声、延々長蛇のごとき堵列は追われるように鉄道線路へ! と引かれて行き、そこで貨物同様に汽車に積みこまれ、厳重に鍵をかけられて、伴れて行かれた所はサンパウロの移民収容所であつた

『南米の戦野に孤立して』 27ページ

そんな初版2000部は10日を待たずして売り切れ、1948年1月に第二版の5000部が再販されました。それもたった3カ月で3500部が売れたところで、著者の 岸本昂一氏の自宅に、DOPSが家宅捜索に入り在庫没収のうえに投獄され、「国家の脅威」として刑事告訴され、以後10年間、国外追放裁判と闘うことになりました。

ブラジル新潟県人会の入り口に飾らされている岸本氏の写真

この時は、独裁政権ではありませんでした。ですが、日本移民同士が傷つけあった「勝ち負け抗争」によって日本移民への評価が著しく落ちていた時代でした。また勝ち負け抗争をDOPSが担当したこともあり、岸本氏の案件は勝ち負け抗争の一環として扱われました。

たしかに勝ち組的な思想傾向を持っていた岸本氏ですが、彼が経営していた学校はそのまま存続し、この本だけが問題とされました。
彼が出版していた雑誌 『曠野の星』 は地方部に多くの読者を持ち、5000部の部数を誇っていました。当時の日系社会としては、かなりの影響力がありました。それを読む限り、けっしてカチカチの勝ち組ではなく、永住志向のインテリでした。
「戦争中の警察による弾圧を書いた」部分が、おそらくDOPSには許容できなかったものと想像されます。

この辺の話は、『「勝ち組」異聞 ―ブラジル日系移民の戦後70年―』(ニッケイ新聞、無明舎出版、2017年)の第7章「 正史から抹殺されたジャーナリスト、岸本昂一」に詳しく書かれています。詳しく知りたい方は、ぜひ読んでみてください。

誰も国外追放裁判など起こされたくない。 そのようなDOPSの弾圧には、誰も遭いたくない。だから、歴史から抹殺され、誰も証言を残せなかった。 岸本氏の件に関して、ほぼ邦字紙はふれませんでした。『70年史』も『80年史』も、岸本氏の件に関しては、1行たりとも触れていません。

同じ目に遭いたくない、邦字紙関係者、日系団体関係者は、右に倣えで、サントス強制退去の件を記録を残さないようにしたのではないでしょうか。

その流れが変わったのは、ようやく左派政権になってからです。労働党(PT)が2003年に始まり、真相究明委員会を作って軍政時代の人権弾圧を調べはじめました。歴史の見直しです。この流れの中で、初めてサントス強制退去の事も、少しずつ浮上してきました。

日本移民抑圧史の見直し運動の中心は、奥原マリオ純さん

その歴史見直し運動の中心人物になったのが、奥原マリオ純さんです。

県人会が主催する沖縄フォーラムでサントス強制退去への謝罪請求運動の説明をする奥原マリオ純さん

彼のお父さんは、80年代、90年代に有名だった日本文化紹介TV番組『Imagens do Japao』(IMJ)を制作・放映していたやり手プロデューサーです。NHK紅白歌合戦を、初めてブラジルに衛星中継したことでも知られています。

Imagens do Japao によるNHK紅白歌合戦の衛星中継を伝える邦字紙の広告 (日伯毎日新聞1988年11月11日付け)


その息子である、奥原マリオ純さんが勝ち負け抗争をそれまでにない視点から扱ったドキュメンタリー映画『闇の一日』 (奥原マリオ純監督、2012年) を制作しました。

映画「闇の一日」

そこから、実際にサンパウロ州真相究明委員会に対して、戦争戦後の日本移民の迫害に関する謝罪請求を行い、実際に委員会としての謝罪を勝ち取ります
歴史の見直し、「日本移民の名誉回復」を、ほぼ一人で成しとげました。すごいですね。
その間の流れが、以下の3本の連載にまとめられています。

ニッケイ新聞 2014年3月19日
戦前戦中の移民史に光当てる=真相究明委員会謝罪の背景=(上)=Fモライス著作への反発=日系人の〝パンドラの箱〟

ニッケイ新聞 2014年3月20日
戦前戦中の移民史に光当てる=真相究明委員会謝罪の背景=(中)=学術界でも人権侵害調査=奥原の孤独な働きかけ

ニッケイ新聞 2014年3月21日
戦前戦中の移民史に光当てる=真相究明委員会謝罪の背景=(下)=次は法務省に持ち込みたい=父の無念の想い胸に行動

このような「勝ち負け抗争」の歴史の見直し運動から始まり、最終的にサントス強制退去事件に対する謝罪請求を法務省のアネスチア委員会に提出する流れに結実していきました。
奥原さんは「委員会の謝罪ではなく、国としての謝罪が必要だ」と考えるようになりました。

勝ち負け抗争は、戦前戦中のおける日本移民への迫害が背景にあり、あまりに厳しい迫害を受けた精神ストレスの結果、残念ながらあのような形で噴出してしまった、という風な認識になって来たのです。

ニッケイ新聞 2016年2月16日
移民迫害に謝罪請求=書類を伯法務省に提出=奥原さん年末、3年で判定か

その際、強制退去者の6割が沖縄系移民だったこともあり、まず、沖縄県人会の会員有志が作っている移民研究塾(宮城あきら塾長)がこの問題に着目してくれ、同塾が発行する同人誌『むりぶし』の第3号からサントス強制退去事件の被害者の証言の掲載を始めました。

「群星」第3巻の合評会の様子(中央が宮城あきらさん)

ニッケイ新聞2017年11月22日
ブラジル日本移民史の快挙=サントス強制立退き証言の掲載

ニッケイ新聞2018年11月13日
群星合評会=新時代到来打ち出した第4号=85周年の歴史的意義を再考=「歴史の空白埋める重要な雑誌」

『群星』に書かれた証言を読んだ県人会員の中で共感が広がり、「これは自分たちの問題だ」という認識が共有されるようになり、ブラジル沖縄県人会が前面に立って、謝罪請願運動の関わることになっていったのです。

ニッケイ新聞2018年4月24日
沖縄県人会=日本人迫害謝罪請求を支援=「これは自分自身の問題」=役員ら全会一致で承認

軍出身の大統領が2019年に就任で、一転、悲観的な観測も

ただし、2018年10月の大統領選挙で当選したのが、軍出身のボウソナロ大統領だったことから、流れが変わります。元軍人だけあって、独裁軍事政権時代の人権侵害などに対して非常に批判的で、軍や警察による弾圧を謝罪することに理解がないのではないか―という不安感が高まります。

軍のセレモニーに参加するボウソナロ大統領(Foto Fernando Frazão/Agência Brasil)

それで、沖縄県人会としてアネスチア委員会に謝罪請求文書を提出する動きが、いったん止まります。それは、NHKのドキュメンタリーの最後の方で描かれました。

ですが、結局はこの12月11日に、奥原さん、 上原ミウトン定雄県人会会長、島袋栄喜県人会前会長、宮城さんが首都ブラジリアに赴いて、アネスチア委員会に謝罪請求を求める文章を提出しました。「これは賠償金を求めるものではなく、二度と同じことが起きないように、政府として謝罪してほしい」という請求です。

ただし、この部分から先の動きは、先のNHKの番組には入っていません。この12月から、この謝罪請求運動は、新しいステップに入ったといってもいいのではないでしょうか―ー。

サントスの波止場から対岸に渡るフェリーが出ている

Like
Like Love Haha Wow Sad Angry
5
タイトルとURLをコピーしました